ブルーバード

幸せの青い鳥を求めて

心情の言語化

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自分の考えてることや感じたこと

近況等を報告する人をよく見る。

 

自分の考えてることや状況を

よくもまあ不特定多数のひとの目に触れる場所に投稿できるものだ

と若干捻くれた考えでいつも眺めていた。

 

自分や周囲の人の所属や住所を知られるリスクについてあまりに考えが足りてないんじゃないかと、そう思っていた。

 

実は共通の友人がいた

とか

この人はこんなことに興味持ってるんだ

とか

そういう気づきは楽しいとは思う。

純粋に。

 

けどぼくはそんなに興味のあることはない。

とくにやりたい仕事や興味のあることが

自分にあるとは思えない。

関心のあることはあるけれど

生来飽きっぽい性分な上に根性もないので、

「これがしたいです!」

「これに興味があります!」

と発した次の瞬間に

「そんなにしたくもないし、興味もないな」

と思うこともしばしばある。

 

おれは自分の言葉には責任を持ちたい性格なので、

自己を開示するようなことはなるべく

避けてきた。

 

飽きっぽくて根性もなく、責任感もない

という怠惰な性質と

言葉には責任をもちたい、変に期待をもってほしくない

という面倒臭いわがままな性質

が他者に自分を開示する機会を奪ってきた。

こうした自己開示は

ぼくの印象を上向きにするものではないとおもうので、つらつらと言語化して後悔することができる。

 

こういうことをしてる著名な人に会った

だとか

友達や恋人に囲まれて幸せな生活をしてます

だとか

自分はこんな選択をしてこういう考えでいます

だとか

臆面なく公開できる人の心の強さが

全く理解できない。

言葉で表現できない自己や

言葉での表現に矛盾する自己について

責任感をまったく感じてないんだろうか。

それとも彼らは言葉で自分を表すに十分な語彙や表現力を備えているとそう考えているのか。

その自信がおれは純粋に羨ましい。

その自信がないから、きっとぼくは、誰にも見せないブログの形式で、心情を言語化したものを保存している。

 

それとも彼らはぼくほど他人に遠慮していないのだろうか。

他人のことをどう捉えているのだろう。

ぼくは他人に妙な期待を与えることは

他人に失礼だと感じている。

他人に間違えたことを伝えるのは信頼を失うことになると思っている。

 

屈託無く

他人にものをきいたりものを話したりしているひとは

他人を道具としてみているのだろうか

それとも

他人をいともたやすく信頼しているのだろうか

わからない。

 

考えるのをやめよう。

考えてもわからないことだから。