ブルーバード

幸せの青い鳥を求めて

幸せとは

幸せとは

ずっと考えてきた。

小学生の時、中学生のとき、高校生のとき、大学生のとき。

そして働き始めてからずっと。

 

一度結論がでた。

 

努力しても幸せにはなれない。

この世は階級社会で、初期値に鋭敏に依存する。

生まれた時点で人生が決まり、幸せになれるかどうかがきまる、と。

浅学ながらカオスを少し学んだ身として考えたことだ。

 

凡庸だけど異質なぼくはきっと最底辺の幸福度しか味わえないだろう。

 

それは今でもそうだと思っている。

たぶん、ぼくは幸せになれない。

なぜならそう決まっているから。

 

けれど、これは自己実現にベクトルを向けた時だ。

自己実現とは憧れの自分や、なりたい自分があって

それに近づこうと努力することだ。

 

でも人は老化するものだ。いつか弱って死ぬものだ。

限りなくなりたい自分に漸近しても、かならず最後はかけ離れていく。

時間をかけないとなりたいものにはなれないのに、時間をかければ歳をとる。

自己実現なんて目指すべきじゃない。

幸せになりたいのなら。

 

幸せになりたいのなら

やりたいことをやるほうがよい。

かっこ悪くても、人に後ろ指をさされても、気持ち悪いと言われても

やりたいことをやるのがよい。

もしもやりたいことが合法的でない場合は代替案を考える。

きっとそこで頭を使えるか使えないかがたぶん頭の良さだ。

グレーな、褒められたものではないけど違法でもない方法はかならずある。

かならず抜け道はある。

抜け道を見つけて、やりたいことを楽しめ。

なりたいものになるんじゃなくて

やりたいことをやれ。

 

そうしたらきっと見えてくる。

どうしたら幸せになるのかが。

 

帰ること。

 

帰ることがきっとぼくの幸せだ。

これがぼくの出した答え。

守るべきタラの大地。

生まれ育った土地に帰り、郷土を懐かしみ愛おしむ。

家族を愛せないなら、地を愛せばいい。

家を愛せないなら、景色を愛せばいい。

風が、匂いが、景色が、思い出が

あたたかく包んでくれるから。

帰る場所を失う前に帰ること。

いつでも還れる安心感をもつこと。

これが安定的な幸せのためにぼくには必要だ。

田舎だろうが、荒野だろうが、

自分だけの故郷をもつことが幸せにつながることだろう。

 

「行くにはなあ行けるだろうが

帰りがなあ」

僕の好きな映画「千と千尋の神隠し」の中の登場人物、かまじいの言葉だ。

 

そうだ。行くにはどこまででもいける。早い遅いはあるかもしれないけど、

きっとどこまででもいけるんだ。

 

でも少し待ってほしい。

行ったところでどうするんだ。

到達することが目的なら到達した後はなにをすればいい?

 

高い位置で維持することは苦痛を伴う。

エネルギーの大きなものは不安定だ。

 

ぼくならきっと帰りたくなる。

戻りたくなる。

でも、行くことだけに必死になると帰り道がわからなくなるんだ。

ずっとどこにもいかず立ち止まっていてもいけないし、

ずっと行きっぱなしの人生はよほどの覚悟と気力を必要とする。

凡庸な人間はある程度進んだら、帰途につくのがいいだろう。

 

ぼくが「千と千尋の神隠し」を何度も見ること理由は、始まりと終わりがうまく繋がっているからだ。円環。

 

 

千尋は両親と別れ、両親の元へ戻った。

新しい学校を見たときに、車の中で千尋が言った言葉。

「前の方がいいもん」

そうだ。前の方がいいんだ。

慣れたものの方がいいに決まっている。

 

中の物語は本当ならなくてもいい話。

だってただの引っ越しの道中。

ただ車に乗って新居をめざす。

それだけの話なんだ。

でもその途中に、回路に電圧計をつけるみたいに、話を加えた。

話を記憶を物語を。

 

なくても話の回路は完結するけど

電圧計は人生にはなければならない物語。

 

人生は廻るんだ、輪のように。

廻るように生きることがきっと幸せだ。

 

芥川龍之介の「侏儒の言葉」のあとがきでこんなことが書かれていた。

芥川龍之介の初期の作品は

自己実現や自由をテーマとしている。

執筆していく中で

徐々に作風が変化し、杜子春では

仙人になろうとする杜子春

両親のために人間に戻ることを選んでいる。

主人公に芥川を重ねるなら、彼は帰ることを、戻ることを選んでいたんじゃないかと思う。

でも彼には帰るところがなかった、と。

 

ぼくにはまだ帰るところがある。

 

5時の鐘がなったら家に帰らないといけない。

逢魔時の魔物とはきっと帰り道を失うこと。