ブルーバード

幸せの青い鳥を求めて

オボエガキ3

2016年に12月21日の覚書

これは中村うさぎ著の「私という病」や「女という病」を読んで影響を受けた文章なんだろう。

自分とは何で、自分の人生とはなんなのか。

自分で自分に意味づけができていない点ではこの時と何ら変わっていない。

まだなににたいしてもあまり意味づけもできていない。 

己事究明という禅の言葉があるそうで、

自分を突き詰めていくことは

もしかしたら人生の重要な課題なのかもしれないし、

反対にまったく必要のないことでやると精神が蝕まれてしまうものなのかもしれないけれど、

いまのぼくにも最も興味を惹かれるものだ。

 

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私を考えたときに、私という漢字の成り立ちを調べてみようとふと思った。諸説あるとは思うが私がたどり着いたページでは、穂先が先端にたれかかる稲の象形と小さく取り囲むことを示す文字から自分の稲を意味し、そこから、「自分のものにする」を意味する。
愕然とした。私が益体もなく考え、悩み、追い求めていた私が、私の解釈が自分の稲で自分の所有物を示す成り立ちであることに愕然とした。私とは私の所有物をさすのか。私が今いる自分の部屋も、私のペンも、私の本も私なのか。私を形作るとは所有物を増やすことなのか。ここで問題にぶち当たる。私の思考は私のものなのか。所有物は権利関係が明確であり、私の所有物なのか、借り物なのか、他社の私物なのかがはっきりしている。では思考はどうか。他者から借りたものや入手した考え方は私なのか。本を読んで得た考え方は私のものなのか。相談してなにか新しい考え方や解釈をもらうことがあるが、それは私の考え方なのか。私の思考は私の所有物ではないのか。だとしたら思考することは私を構成する上ではなんの役にも立たないのか
。共有する考え方があると考えれば、私は他人の中にも存在しているということになる。もしそうならば、他人と私は切り離せない。しかしどこまでが共有できる部分でどこからが共有できない部分なのか、それを知ることはできない。私が他人を他人と切り離すことができないのは仕方のないことなのか。私は私として独立して存在できないのか。自分の意思や考え方、オリジナリティといったものはなく、単なる寄せ集めでしかないのなら、それは私にとってこれほど怖いことはない。
他者尊重は私と他者を切り離さずには成り立たないという考えがあるからだ。しかし前述した通り、私が私個人として独立して存在できず、他者の中にも私がいるのだとしたら、それは他者の中の私を切り離すことを必要とするのだ。他者尊重のためには私自身と他者の中の私のふたつを切り他者から切り離して考えなければないない。しかし他者から他者の中の自分を切り離すことは他者冒涜となる。他者尊重のためには他者冒涜が必要で、しかし他者尊重と他者冒涜は両立することができないといった塩梅だ。もはや希望はないのだろうか。他者と心の深いところで精神的なつながりを求めることは、波一つ立たない大嵐を期待するようなものなのか。

幸せは幻想なのだと同期はいう。代わるものは充実感や達成感なのだと。
しかし私は蝶々が飛んできたら、「あ、蝶々だ」とやっていたことも目的もほっぽり投げて、ひらひらと飛んでいく蝶々を全裸で追いかけていくようなメルヘンチックな幸せを諦めることができない。ないかもしれないと頭では思っていても心ではでももしかしたら…と思っているのだろう。もし心から幸せなどないなと思っていたらおそらくぼくは人生を諦めるだろう。