これは、チャーリィに捧ぐ。
「経過報告」
雨がコツコツと降りそそいでいる。
車のガラス面に現れては流れる雫を、運転席からただぼーっと眺めている。
一瞬、視界の隅に黒い影が映り、とてつもない速さで車の下に潜り込む。
昼寝から覚めた。今日は車検をした。
車検をするのは初めてである。
いま、こうして日記ー経過報告ーを書いてみようと思ったのは、時間潰しに読んでいたダニエルキース著「アルジャーノンに花束を」がきっかけだ。
自分の文章のレベルを客観的に判断するためには、こうして実際に考えてることや思っていることを文章にしてみるのが、一番手っ取り早いと思ったからだ。
今日は8時くらいに起きて、着替え、衣類乾燥をした。朝ごはんにまんじゅうとヨーグルトを食べて、衣類を回収し、車検にきた。気分がすぐれなかったけど、そのあとは、アルペンで靴やトレーナーをみて(トレーナーは購入。靴はネットのが安かったからネットで買った。)、昼飯にはインドカレーを食べた。午後はカインズの駐車場で読書をして、昼寝をした。少し寒かった。起きて、いまこうして日記を書いている。夜は友だちと寿司屋に行く予定だ。楽しみである。
今週も仕事は山積みだった。ようやく、少し落ち着いて週末を迎えることができた。20時21時まで残業をしている。
仕事はできている、と、そう自分では感じている。だが、仕事中の何気ない会話や、他人とのコミュニケーションが十分でない自覚がある。なぜ、みんなと同じようにコミュニケーションがとれないのだろうか。発達障害なのかと思うこともあったし、EQ?不足なのかと思うこともある。
チャーリィが述べた言葉としてp8にこんな記述がある。
「‥しかし知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多いんです‥すなわち、愛情を与えたり受け入れたりする能力がなければ、知能というものは精神的道徳的な崩壊をもたらし、神経症やいしあは精神病すらひきおこすものである。つまりですねえ、自己中心的な目的でそれ自体に吸収されて、それ自体に関与するだけの心、人間関係の排除へと向かう心というものは、暴力と苦痛にしかつながらないということ」
そして続く。
おそらく彼はこう示唆したいのだろう。つまり、知識の探求にくわえて、われわれは家庭でも学校でも、共感する心というものを教えるべきだと。われわれの子供たちに、他人の目で見、感じる心を育むように教え、他人を思いやるように導いてやるべきだと。
p168,170
p196
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「感想文」
昔から知的好奇心は強い方だった。
興味をもったことは、できる限り調べて自分の納得のいく形で自分に落とし込んでいった。甲斐あって、人より成績はよかった。
けど、きっとその時点でも他人を思いやる心は未熟なままだったんだろう。
高校の時、医学部にいったクラスメイトから、一生懸命やっているようにみえないと言われた。東工大にいったクラスメイトから、ラーメンに誘われたが、俺は特に理由もなく断った。
他者の気持ちがわからないのだ。
感情に乏しいのか?
特に仕事上では、自分が粗末な扱いをされても、特になんとも思わないから、自分も相手にそうしてしまう。
いや、なんとも思ってない訳ではないが、仕事だからと諦めているのだ。
なんとも思わないようにしないと身が持たない。