住野よる「また、同じ夢を見ていた」を読んだ。
導いてくれるひとたちの存在。
自分がした経験、後悔を小さな女の子に教えていく小さなオトナたち。
「謝ることも出来ないで、大切な人を失って、ひとりぼっちで自分を傷つけてしまうこと」
「自分が大嫌いで、自棄になって、あまつさえ人生を終わらそうと思ってしまうこと」
どちらも身に覚えがある。なんなら今だってそうだ。
近所でよく遊んでいたリョウマ君は、お母さんが亡くなってから幼稚園にこなくなってしまった。
その時は待つことしか出来ないで、リョウマ君に何も伝えることが出来なかった。
中学で再会したときも、少しだけ声をかけただけで、なにも、なにも出来なかった。
手紙を書いたけれど、それはプリントの中に付箋紙を入れるようなものだったし、
自分から届けに行くとは言わなかった。
つまり、その程度には、社会に「適応」していた。
親が離婚して学校にこれなくなった友達にも、「一緒に学校に行こう」と電話はかけたけれど、直接家まではいかなかった。
つまり、その程度には、社会に「適応」していた。
弱っているひとを助けない。
違う。
そこまでだいじに思っていなかったということ。
じゃあ、誰なら大事に思えるんだろう。
気にかけてくれる職場の仲間も、学生時代の友達も、警戒してあまり相手にしなかった。
なぜなら彼等から嫌なにおいがしたからだ。
俺を利用しよう、俺の強みを被ろう、俺の弱みにつけこもう
俺を競争相手にして負かそう、そういった類の関わりの気配を感じとった。
嫌な匂いを警戒するあまり、彼等に負けたくないと思うあまり
意固地になっていたのかもしれない。
信じる覚悟が僕には足りない。