ブルーバード

幸せの青い鳥を求めて

夜と霧

P124
「来る日も来る日も、そして時々刻々、思考のすべてを挙げてこんな問いにさいなまれなければならなおというむごたらしい重圧に、わたしはとっくにへどが出そうになっていた。そこでわたしはトリックを弄した。ーーー。そして、わたしは語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。今わたしをこれほど苦しめうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される……。」
スピノザのエチカのなかでこう言っていなかっただろうか。『苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる』
エチカ第5部知性の能力あるいは人間の自由について定理3

P130
具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。

P132
苦しみ抜く勇気と涙の重要性

P152
とくに、未成熟な人間が、この心理的な段階で、相変わらず権力や暴力といった枠組みにとらわれた心的態度を見せることがしばしば観察された。そういう人々は、今や解放された者として、今度は自分が力と自由を意のままに、とことんためらいもなく行使していいのだと履き違えるのだ。ーーつまり権力、暴力、恣意、不正の客体であった彼らが、それらの主体になっただけなのだ。この人たちは、相変わらず経験に縛られていた。
被害者意識が働く者は幼稚な平等性を求めて加害者になりやすい。ref愚行録

100ページほど読んだあとに日を開けて読んでしまった。いま書く感想は残り56ページと訳者あとがきを読んでのものである。

これは読書感想文だ。


過酷な体験を受ける者が未来への希望やよりどころを失わず、懸命に生きた。しかし解放されてなお、それらの経験は精神的な解放を阻害し、感情は歪な形で結晶していく。抑圧や暴力を発端とする精神的な現象を精神科医として分析し、自分が人生を選ぶのではなく人生が自分を選ぶのだと解釈のコペルニクス的転回を提示する。そしてフランクル自身は、トリックと称しスピノザのいう「苦悩の明晰判明な表象」によって自己の状態を客観視し、思考を調節したと記述した。
四月から仕事をするにあたり、辛いこと苦しいことに数多直面することだろう。しかしそうしたときに、ブログやTwitter、映画レビュー読書レビューによって言語化し客観視することで苦悩にうまく対処できるのではないか。事実、今年度数々の苦悩を体験し、著者のいう自己放棄手前まで陥った状況は心療内科受診やカウンセリング、担当教員の心遣い、同期先輩への自己開示、信頼できる友達への相談等言葉を用いた自己客体の試みが功を奏した。そして自己の状態や過去の辛い記憶をだれにも見せないブログに書き起こした。
言葉にすることで向き合うことはできる、苦悩も苦悩でなくなる。しかし自分がかわいそうだ、被害者だとは思ってはいけない。被害者だと自覚するのは、幼稚な自意識で、この自意識は歪んだ平等性を求める。自分の受けた苦悩に値する幸せなどないのに、苦悩を幸せで埋めようとする。あるいは周囲に同じ体験を強いる。気持ちをわからせるために。
被害者意識を抱くのは他者からの心ない薄い上っ面の同情の言葉なのだ。見知った相手に自分の状態を伝えるのはそういう危険を孕む。話す相手は選ぶべきだろう。さらに悪い状態にならないようにするためにも。