ブルーバード

幸せの青い鳥を求めて

私という病(中村うさぎ)

私という病 (新潮文庫)

私という病 (新潮文庫)

 「私という病」
この本では著者中村うさぎが自らの感情や思考に深く深くアプローチしていて、
ぼくが自分自身のなかにある筆舌に尽くしがたい不安感の正体を知る手がかりになった本の一つです。
以下この本を読んでいた時の日記になります。
 素人文章で、一人称も語調も不安定ですが、このときの状態を尊重したいので誤字以外は手を加えていません。お目汚しにならない程度に読んでいただけると幸いです。この日記をかいてから研究室メンバーや指導教員に自分の状態をなるべく正確に話したところ、僕の状態を理解しようと配慮してくれました。
研究自体はすきではないですが、いまでは研究室に行くことへの抵抗や助言教員の元へいく抵抗ははこの日記をかいた時よりすくなくなり、研究室メンバーを嫌いではなくなりました。今見てみると共感できない部分が結構ありますが残しておこうとおもいます。
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気立ての良さそうな女の子二人が、「同棲したい」「邪魔だから同棲したくない」「彼氏いないのに?」「彼氏がいないから言える(笑)」と冗談混じりに談笑している。
同棲したいと言ってい女の子は「シャネルとグッチどっちがすき?とか指のサイズいくつ?とかきいてきて、あからさまで笑える」と一方で彼氏を見下しているようだ。
ぼくはカフェでそんな二人の会話をコーヒーをすすり、中村うさぎさんの「私という病」を読みながら盗み聞きしていた。
同棲したいと言っていた女の子はおそらく彼氏や男性の前で可愛がられる術にたけているのだろう。容姿や服装を見てもそれがうかがえる。今この場にいる彼女と男性の前でいる彼女はおそらく別人なのだろう。読んでいた本に感化され書いているが、それは「女性としての価値」がこの世の中でいかに重要かを彼女自身が自覚的にせよ、無自覚的にせよ感じているからなのだろう。彼氏がいない、モテない、結婚していない等は現代社会において(ことに女性に関して)、評価を下げる指標であることは男であるぼくも感じていることだ。たとえ女性自身に結婚の意思がなくても、結婚していないと言う事実に対し、(多くは男性側の視点だが)あいつは結婚できないという認識で事実を消化する。たとえ本人がそれに対し、いかに抗議しようともそれは「負け組の言い訳」として処理され、聞き流され「はいはい」と受け流されて終わってしまう。むしろそういった抗議は言い訳と認識され、事情説明は女性の価値を落とすと話す側も話される側も認識している。
これ自体が社会的な病であり、中村うさぎさんの言葉を借りれば「女としての病」であり「男としての病」であるだろう。
ある程度年齢を重ねた独身女性に対して、侮蔑的な態度をとる男性は多く、相手をしてやる・かまってやるといった態度で女性に対する男も多い。
この事実に関し、中村うさぎさんは「男性が母親を聖域化することから抜け出せないこと」を原因としてあげているが、この見方は説得力があり、僕自身の人付き合いの経験からしても納得のいくものである。

ハロウィンの文化が日本に浸透しつつある理由は、仮装することでいつもの私とはちがうナニカになれることを期待している人が多いことがあげられるのではないか。
多くの人付き合いにおいて、人となりや考え方は多かれ少なかれ一貫性を求められる。
もしその一貫性を放棄しようものなら、大人お得意のセリフ「無責任だ」を使われ、侮蔑され、反省のそぶりを見せないなどして、最悪の場合社会的に殺されることもある。

自分という人間はさまざまな側面があり、そのすべてを尊重しなければ、心身の不調が出るのは当然だとおもう。事実今の私がそうだ。
性格に一貫性を求められ、今日と明日で主張が違えば信用を失う。利益重視で考えたときに、一貫性や信頼関係は大切であることには賛成するが、それが人として(少なくても私は)自然なことでないと私が感じていることはこの場で述べたい。

考え方なんて本を読んだりや友達と話すなんて些細なきっかけで変わるものだし、それを絶対視(これは言いすぎかもしれないが、人を評価する上でかなり上位の指標であるように扱うこと)することは、対人関係の軋轢のきっかけの大部分を占めていることは間違いない。
かといって一貫性がなければ、その人を信頼することはできないしよりよい関係を構築していくことは難しいことも事実だ。
ただそれは難しいのであって不可能ではない。
昨今の風潮である「コスパ」や「効率」が人付き合いの分野にまで浸透してきており、相手のことを時間をかけて「こうかな。いやちがうかな。こうかな。」と理解しようと試行錯誤する作業がないのだ。
「この人はこういうことをするからこういう人だ」「この人はこういう仕事だからこういう人だ」と行動や肩書から勝手にイメージを膨らませ、その人の性格を決めつける。
そんな付き合い方で長い付き合いができるわけがない。

ひとにはさまざまな側面がある上に、それは一秒ごとに変化し、決して他人である私がわかった気になどなってはいけないのだ。
苦労が美徳のされる前時代的な文化は根強く残っているが、自己実現や社会貢献に対しては奨励されても、人付き合いに関して奨励されることはない。
本来苦労の用いられ方のひとつは、相手のことを理解しようとするときに用いられるべきなのだ。もし良い人付き合いを望むならだが。

自己実現や社会貢献など二の次三の次であるのに、それに苦労や努力を振り分ける。そして自己陶酔し、他者を蔑ろにしていく。
でも心の何処かでそれがちがうことに気づいているから、ふとしたきっかけで心は悲鳴を上げて、精神不安定になったり自傷行為にはしってしまうのだろう。

まえにも述べたようにたしかに社会貢献や自己成長を試みないものはクズ扱いされる。
だが人生それが優先順位の一番ではないはずだ。それが優先順位一番だと主張する猛者がいるなら、両手を上げて敬意を示し、こう言う。勝手にやってくれ、と。
そのあとに忘れず、巻き込まないでくれと付け加えて。

ただしひとには承認欲求があり、この欲求の存在故に、順位がつく分野については厄介だ。

順位がつく分野では、母数が多く席次が早いほど優越感にひたれる。だから、自分が良い席次を取れる分野に他者を巻き込もうとするのだ。そしてこの優越感はいっときではあるが、替えがたい恍惚感にむすびつく。僕も経験がある。これは選民意識に結びつき、他者を見下したいという人の本質に相性がいい。

だが一抹の寂しさを感じることだろう。感じない人は知らない。とくに異性に好かれたいと感じる男性は、好かれるための手段として他の男性と比較できる順位やランキングを利用することが多い。自分の価値を所属集団や年収、学歴といったもので確認し、自信を持つのだ。私も男性であり、その気持ちは十分にわかる。しかし私のようにバカで偏屈なヘタレ人間は、それに怖さや虚しさや寂しさを覚えてしまい正当化できないのだ。たとえ自分が良い席次やステータスをとれているとしても。それでよしとできないのだ。
私の中のヘタレな部分がそんなことでしか自分の価値を確認できない男(女でもそうだが)なんて怖い、虚しいとおもってしまう。おそらく順位が変化するのが怖いのだろう。絶対的なものでかわらないものでないからこそ、こういう認識をする。
今後変わることがないものならある程度執着することはできた。(一方で順位や偏差値に拘泥する人を見て見下すこともしていた。その微妙な相反する、ひとがこだわっているのを見て自分の行いを寒く感じる、考え方のおかげでこだわりきれないこともしばしばあったが。)

中村うさぎさんの本の中で蔑まれる女性という性への嫌悪感について述べられている場面があったが、その言葉でぼくは自分の中に蔑む男性という性への嫌悪感があったことを思いだした。反面教師的に自分の性を憎んだ。
その憎しみから、他人を蔑んだり蹴落としたりする男性が苦しんでいるさまをみるのが好きだった。さながら下克上のように。
だから男性が女性に犯される物語が好きだったし、でも生物としての男性であることは特に違和を感じていなくて、男性が男性を犯すAVもみていた。ざまあみろって。
社会的な男性という性への嫌悪感。それが俺を勃起不全にしたり、恋愛感情が冷めたり、上昇志向や成功欲求をもてない原因なのだろう。

バカだから体験しないとわからない。この言葉は本当に自分でも身にしみる。やってみないとわからないことは本当にあるのだ。
やってみもしないで頭の中でこうなるだろう、こうだろうと想像するのはあまり得意ではない。やってみて感じることが好きなのだ。
継続することが奨励されて、途中で投げ出したり辞めたりすることで評価を下げられる世の中だから、今の時代チャレンジでなにかに着手するハードルが本当に高いと思う。もっとものごとは気楽に取り組めるはずなのに、それを良しとしない風潮は生きづらく感じる原因のひとつである。

いままで本当に辛くて、この辛さが何からきてるのかわからないでいたけど、ようやく解決方法がわかった。
研究室と指導教員が嫌いなのだ。
指導教員は立派だとおもうし、尊敬はしてるけど、特に感謝はないし、そうなりたいわけでもない。興味のもてる研究分野でもない。
なんなら研究なんて嫌いなのだ。学問なんて嫌いなのだ。勉強なんて嫌いなのだ。面倒くさいことは全部したくない。興味のあることなんておいしいものとウォッシュレット付きトイレと快眠とムラムラした時の性欲発散のおかずくらいなものだ。

同期は着々と頑張っていて、なんで金ももらえないしおもしろくもねーのにそんなにがんばれるんだとおもう。後者は完全に主観だけど。がんばれない自分に辟易するしていたが、そりゃそーだろ。金ももらえねーし、キョーミもねーんだぞ。頑張れるほうが頭おかしいだろ。
当然である。でもずっとこんなかんたんなことにも気づけなかった。中村うさぎさんの本を読んで気づけた。そうだ。おれは研究室をやめたいのだ!この時期に!11月に!!
もっと自由に選択できるようになりたいのだ!!でもやめるまえに希望を提言することはできるはずだ!
どうすれば研究室がストレスフルじゃなくなるか考えて、先生に話してみよう!それはできないといわれたら、研究室をかえればいいじゃないか!!
かんたんなことだ!!

人間関係ではなく学力的に研究室活動が嫌なら続けたほうがいいという記事も見た。
やめる人間というのは基本的に信用がなくなる。それはわかる。だけどやめたいという気持ちを圧し殺すのはよくない。辞めたい自分を認めつつ、我慢していくこと、これも一つの道である。
 自分で見栄やプライドや当たりを張って、当たり前の流れで選択した研究室。ここをかつての俺の死に場所としよう。
 見栄やプライドや流れであたかも自分で選択したかのような、虚栄的で受容的な自分との決別。これを最後にする。
 ここで続けてしまってはまたかつての虚栄的な自分が強いままになってしまうんじゃないかと言う不安はあるが、この選択はあくまでいくつかいた自分のなかのひとりがしたことであり、自分の責任を自分で取ることを放棄するようなそんな人間にはなりたくないのだ。もしかしたら卒業までに、自分でしたことの責任をとりたがる自分もどうしようもなく嫌いになり、手放したくなるかもしれない。
でも今は虚栄的なジブンは手放したくても、、責任をとりたがる自分を放棄したくないのだ。その思いを大切にしよう。
 そして責任を取るためなら、研究室メンバーは利用するしかない。たとえ先生であれ、先輩であれ、同期であれ、後輩であれ。このひとたちに極限まで嫌われてもいい。それでもおれは卒業したいし、卒業発表をしたい。

ぼくは本当に今まで悩んできたし苦しかった。どうしてやる気が出ないのだろう。異性にもてたいともあまり思えない。
同性愛者なのか。両性愛者なのか。
幸せになれるのか。
でも出世したり上昇したくない。
なぜか?足を引っ張られて突き落とされるのが嫌だから。
そう思っていた。それが本心だと思っていた。
でも違った。
おれは男の権威主義的な言動が昔から大嫌いで苦手だったのだ。これが原因でいまの悩みがあるのだ。ふざけんなこんちくしょーとおもう。ようやくすっきりしたのだ。自分が何でできているかを知ることができたから。

それは「私という病」という本の性質のおかげなのかもしれないが、おれはこの本を中村うさぎさんが「本音」で書いてくれているからなのだとおもう。今の世の中
(こういう言い方をすると昔はちがったのか!といわれるが、そうではない。単純に今の世の中のことしか認識できないだけだ。昔のことを調べようなどという勉学意欲は私にはない。あくまで今の世の中の私が感じている範囲の話だ。)
では本音で語ることができる機会が少ない。面と向かって話しても、誤魔化されるし私もごまかしてしまう。SNSなどは虚飾の宝庫であり、スクリーンショットなどの方法をつかい、SNS上で個人が世の中に向けて発信することができる時代であるから、他人に対し本音で話せず警戒的になってしまうのは当然のことだろう。

対女性だけでなく男性間であっても権威主義、肩書主義はあてはまる。私が男性であり、昨今女性活躍が叫ばれている状態であるからか、男性間での権威主義、肩書主義の色合いが強いことを感じる。
またいわゆる男社会でたくましく生きている女性も権威主義的肩書主義的な場合が多く、もはやこの病は男性だけにとどまらず女性側にも広がっている。

権威主義そのものがきらいなのではなく、権威主義を振りかざしてくる人間がきらいなのかもしれない。独自の言い回しだが積極的権威主義ということになるのか。
消極的権威主義もあまり好きではないし、苦手だが、私は無意識にこの主義を取ってしまっているようにおもう。
就職先をきめるときもブランド力や世間体もひとつの選択要素にした。
大学受験時も偏差値を気にし、受験校を選択した。
でも積極的権威主義への反骨精神で、やっぱり2番目3番目くらいの階層を選択するのだ。
自己矛盾をはらんでいるようだが、そういうわけでもないのだろう。
嫌悪対象の積極的権威主義に対する防衛策として受動的権威主義をとっているのだ。ただ同じ権威主義には違いないし、気持ちのいいものではないため、やはり手放しで幸せにはなれない。
積極的権威主義に敢然と立ち向かうか、それとも積極的権威主義に受動的権威主義で対抗するか。
敢然と立ち向かうのは気持ちがいいだろうし、憧れる姿である。権威主義ゆえに相手にされない可能性がたかく、自己満足で終わる可能性はある(まあそれでもいいが)それ以上になにももたずに戦うのはリスクが高すぎるし、権力の元に殺されるだろう。ざんねんなことになりたい像ややりたい事はあっても、それにつきまとう高いリスクを受け入れる勇気はないのだ。ヘタレだから。
だから私は書物という形で私がなにに嫌悪感を示し何に苦しみ何を感じているかをだれかひとりでもいいから知ってもらいたい。そうおもうと同時に自分の中の正直な部分が消えてしまうのが怖くてここに書き記しているのだ。

俺をここまで追い込んだのはだれだ?
高校受験失敗してちょっとだけ謙虚になっていて、従順になっていた俺を洗脳したのはやつだ。高校2年3年の担任だ。奴が洗脳した。その苦しみからようやくおれは抜け出せそうなのだ。あの権威主義の権化め。当時のクラスメイトも同様だ。法が許すなら、あいつら全員散弾銃で蜂の巣にしてやりてーよ。くそ。
俺の中の過激ギャルがようやく息を吹き返したんだ。一過性のものかもしれないけど、これを皮切りに徐々に俺自身が復活することを願う。

幸せっていうのは満たされないことなのかもしれない。食欲性欲睡眠欲が満たされると人間ろくなことをしない。だからたぶんおれは
意識的に性欲がみたされないようにコントロールしてるんだろう。ここが満たされたあとの次のステージが破滅への道になりそうだから。